いつからだろうか、こんなに自分の中で
深く考えるようになってしまったのは。
自分で自分を苦しめている気がする。
この世を光と影の二つに分けるとしたら
光に行きたい、光に憧れる影なんだと思う。
前は光に入れてたと思う。
ここでいう私よ考える光は、真っ直ぐに物事と
向き合っていて全力な人...とでも定義づけできるのかな。
何をやるんでも何か全体を俯瞰してる自分がいるんだよね。
それは自分にとってすごく邪魔な存在で。
重くて重くてでっかい自意識の塊を心の中で
作っていて、その塊のせいで自意識過剰になっていく。
実際自分でも抜け出せなくて辛い。
何が嫌とかそう言うわけでもない。
でも風のように気まぐれに私の心の中に
すーっと入りこんできては暗い霧みたいに
私の心を自意識でガチガチに固める。
それはネガティブでみんなとは一段下がった場所にいる気分。
何も考えずに楽しく過ごしてるように見えて羨ましくなる。
こんな事書いている自分も本当は嫌なんだ。
感覚で感じるままに自由に生きたい。
だけど今の自分は立ち止まって考えてやっぱりやめようって
後ろ歩きし出すみたい、前に進むことへの未練を
前にぐんぐん進んでいける人に羨望の眼差しを向けながら。
後ろ歩きしながら本をよんだりして得た知識の石ころを
ポケットに手を突っ込んで確かめる。
みんなが前に進んでいる間に私はじっと
本を読んで知識を得た、ここだけは違うんだ
教養というものがあるんだってどこか
人とは違うところを見つけては少しでも
優位にたとうとしてるみたい。
なんだかね、何でこんなねじ曲がった
複雑な人間になってしまったのかね。
分からないね、みんなは身軽に見えるのに
自分ははち切れんばかりの荷物を背負って常に
動いてる気分になるんだ。

西加奈子さんの『うつくしい人』を読んだ。
10月に入って6札冊目の本。
この本の主人公の百合も私みたいに
トンネルの中をさ迷ってるの。
だから読んでいて同じ温度だった。
百合がいる状況に共感できた。
周りから見たら何でそんなに悩んでいるんだろうって
思われるかもしれないけど、本人としては
とても辛いんだ。
でも百合は坂崎とマティアスに出会って変わった。
自己嫌悪の膜に何も知らない唐突に心に入ってくる針で
プツンと刺すとその膜は一瞬にして何事もなかったように
割れてなくなって周りにあった空気と調和し始める。
何に悩んでいたんだろう、って思える。
こんなに単純で簡単な事だったのかって。
きっと彼女はこのはなしが終わったあとも
浮き上がってきたり沈んだり、複雑で繊細で
扱いずらくて面倒くさい女の人だろうね。
自らトンネルを作っていて真っ暗に覆って囲って
周りとの隔たりをつくる。
そしてその隔たりをみんなとは違う何かを持った
自分に都合よくすり替える。
でもそれは井の中の蛙でしかない、のだろう。
いや絶対にそうなんだ。
だけどあとがきで西加奈子さんとともさかりえさんが
言っているように
どんな状況も自分で作り上げている。
自分を追い込んでいるのも、自己嫌悪の連鎖に
自分を陥れているのも全て自分。
「辛くなるのも、幸せになるのも、自分次第」なのだ。

これを書いている今も私はトンネルを抜けるきっかけを
掴めないままでいる。

でもバスケットボールでシュートを決めた瞬間とか
座り心地のいいソファに座ってケーキを食べて
本を読んでいる時間は紛れもなく幸せだ。
心の中が心地いい状態である。
だけどそこに太っちゃいけないとか
変な自分のエゴがまとわりつくと
罪悪感が上に覆いかぶさって嫌になってくる。
たまにの御褒美はいいじゃないか。
気が進まない時は1人で好きなことをする。
それでいいじゃないか。
もっと単純に物事を考えればいいじゃないか。
心の中のもうひとりの自分はそう言っている。

風のように感覚で生きたい。
何にも左右されず気の向くままに。
こう考えてる今でも、いやそれは
感覚ではなくてワガママではないのか、
左右されないとはイコール自分中心で
いることと同じではないか、とか
事の反対側をすぐに考えてしまって
ループ殻ぬけだせない。
だけどそれでもいいのかもしれない。
間違ってたら直せばいい。
気楽に何でもやってみよう。

そう自分を奮い立たせてみる。