無関心からの脱出

安全保障法案が可決した。

この決定が私たちの生活にどう影響していくのだろう。

戦争法案なんて言われている。

10年後、日本は今と変わらず平和に過ごせる国であり続けているのかな。

日本は今は平和だけれど、今も世界のあちこちで争いは絶えない。

 

法案が可決する何日か前、テレビで国会前に

何万人もの人がデモに押しかける光景が目に入った。

警察の車が壁を作り、一般市民ともみくちゃになって

戦争反対とかかれたボードを掲げ、大きな声で廃案を訴える。

道に人が寝そべって必死で抵抗している。

こんなことが日本で起きている、自分の知らない所でどんどん話が進んでいく。

 

そうして結局、可決した。

日本の中でどれだけの人がこの法案について理解したんだろう。

賛成、反対を述べる前に自分の考えを持ってこうあるべきだ、と考えたんだろう。

分からないなりに知ろうと努力した人がどれだけいたのか。

きっとほんのわずかな気がしてならない。

 

「国民の理解を得ないまま法案を可決するなんて...」

「これは強行採決だ」

と多くの憲法学者や野党の国会議員が言っていたけど

理解しようとした国民がどれだけいたのか。

多くの人は無関心だったのではないだろうか。

無関心ほど怖いものはないと最近つくづく思う。

自分の目の前には多くのものが転がっている。

しかし無関心であるとそれに気づくことすらできない。

自分の世界から関係ないから、と消し去ってしまっているのかもしれない。

本当は自分にとってとても大事なことなのに。

そうして目の前に転がり溢れている問題は、私たちの知らないところで

どんどんと大きくなっていって、私たちが異変に気付いた時には

もうどうしようもない取り返しのつかない所まで行ってしまっていて

動き出そうとしてもその方法すら分からない。

そうして私たちはどんどん何かに飲み込まれてゆく。

 変わりたくてもその手段すら分からない、そんな気分になった。

それはあまりに悲しくて寂しすぎた。

 

だから私は少しずつ自分で

(こう書いてしまうと何かとてもすごいことに聞こえてしまうけど

自分自身の意思で自分の中に変化を起こしたくて)

今の日本のこと、世界のことについて知ろうと思った、

知らなければいけないと半ば使命感が伴っている、のかも知れない。

また三日坊主で怠けてしまうかもしれないけど、

少なくともあのデモの光景を見たときは「知らないことへの怖さ」を

強く感じて、今の自分のままでは社会という巨大な何かに

自分は飲み込まれてしまうと危機感を感じた。

情報過多の時代、知ろうとすると情報は

正しいこと、間違っていること、知るべきこと、嘘のことが

まるで津波のように一色淡になって私に覆いかぶさってくる。

それをお菓子を作る時、薄力粉を篩いにかけるように

正しいこと、正しくないことを分別つけられるようにならないといけない。

 

だから私は本を読むことを心掛けている。

ネットから入ってくる情報はどうしても受け身で目に入ってくる。

調べたいキーワードを打ち込めば簡単にその説明が出てきてしまう。

でも果たしてそこで得た情報がどれだけ自分の知識として

身になっているのか考えると私は不安になる。

本を読む。活字を目に入れる。

私はまだまだ知識が足りないから1回で理解できないことのほうが多い。

だから文章に書いてあることを自分なりにノートに書き起こして

自分の知識として頭の中に入れ込む。

最初は分からなかった問題も自分のフィルターを通して

頭に入れることで少しずつ理解することができる。

能動的に自分で求めて得た知識は深く頭に刻まれる。

その知識の蓄積が自分の身となって社会で戦う武器になると思うんだ。

知識は目には見えない武器だ。

 見えないから相手がどれだけ持っているか分からない。

でもその代わり相手にだって自分の知識がどれだけあるかなんて

知ることはできない。

時に言葉となり文字となり、知識は形を自由自在に変化させながら

形となり世界に何かしらの痕跡を残ることができる。

それは本の小さな痕跡かもしれないが

残せるか残せないかでは大きな違いが生まれると思う。

同じ考えの人同士が集まればやがては大きな力に変わる。

 

母はよく「積み重ねは大事だよ」と口にする。

私の家の家訓のひとつ。

少しずつでいいんだからやっておきなさい。

全くやらないのとは全然違うんだからって。

その意味が改めて分かってきた。

新聞を少しでも毎日に通す。

こんな小さなことでも毎日続ければ違ってくる。

分からないことはほったらかしにしないで調べる。

そうやって自分なりに少しずつやっていこう。